日本史についてです。至急回答お願いします。日本史についてです。大至急で...
| 質問 |
日本史についてです。至急回答お願いします。日本史についてです。大至急です!!お願いします。次の文章を読んで、当てはまるものを選びなさい。中国の歴史書である、(①漢書、②後漢書、③魏書)の地理史には、紀元前(①3世紀、②2世紀、③1世紀)頃の日本のことが、倭という名で見えている。当時の倭は、100国以上の小国に分かれており、その王たちの中には(①毎年、②1年おきに、③定期的に)中国の朝鮮半島における植民地(①楽浪郡、②帯方郡、③遼東郡)に使者を派遣して貢物を献上したものもいたという。また、(①宋書、②後漢書、③梁書)によれば、(①伊都国、②末魯国、③奴国)王は紀元(①25年、②57年、③107年)に使者を派遣して朝貢し、(①順帝、②光武帝、③武帝)から金印を授けられたという。この時授けられた金印が(①福岡県、②佐賀県)から農民によって偶然発掘された。こうした縁故でこの金印は、領主(①小笠原家、②鍋島家、③黒田家)に帰し、現在では国宝に指定されている。その後中国の力が衰え始めると、高句麗が北から中国の植民地を侵し、朝鮮半島中・南部の(①鮮卑族、②韓族③扶余族)も力を伸張し中国の支配を撥ね退けようとした。(①魏志倭人伝、②宋書倭国伝、③梁書倭伝)に見える「倭国大乱」がそれである。中国支配力の減退のほか(①石器、②青銅器、③鉄器)の普及による農業生産の増大があった。(①竪穴住居、②高地性集落、③朝鮮式山城)の出現や事故死の遺体が数多く出土する。邪馬台国は南方の(①投馬国、②くな国、③一支国)と激しく争っていた。 |
| 回答 |
①漢書③一世紀③定期的に 歳時を持って①楽浪郡②後漢書③奴国②57年②光武帝①福岡県③黒田家②韓族③③①② |
| 回答数 |
1 |
| 質問日 |
2011年06月09日 |
| 解決日 |
2011年06月09日 |
| 詳細 |
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1064125920 |
三国志魏書濊伝の中に「男女衣皆着曲領、男子繋銀花」という文がありますが...
| 質問 |
三国志魏書濊伝の中に「男女衣皆着曲領、男子繋銀花」という文がありますが、繋銀花の銀花というのは造花なんでしょうか?銀でできた花という解釈を私はしているのですが、当時銀は産出していたのですか?男性がそれを付けていたことになりますが、これはなぜつけていたのですか? |
| 回答 |
そこでいう銀花とはこれのことです 銀は関係ありませんhttp://www.hal.msn.to/kankaisetu/chuyaku132.html (イメージはここのスイカズラの植物写真って奴でしょう)http://www.besttojp.com/product/jyh.html何故着けていたか…>その後の文で『廣數寸以爲飾』とあるので飾りにしていたんでしょうね ファッションでしょうか? 匂いが良いからつけていたとか色々あるとは思いますが 生薬にもなるので実用的な意味もあるかと |
| 回答数 |
1 |
| 質問日 |
2011年06月05日 |
| 解決日 |
2011年06月06日 |
| 詳細 |
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1063828400 |
三国志魏書東夷伝などに、それぞれの種族の生活様式が書かれていますが、な...
| 質問 |
三国志魏書東夷伝などに、それぞれの種族の生活様式が書かれていますが、なぜこの当時の種族は養蚕をしていたんですかね?養蚕技術はすでにあったのですか?そのような要因を書かれている文があれば教えていただきたいです。また当時の五穀は何を指すか知りたいです。 |
| 回答 |
Q:何故養蚕していたか?要因の文字?探しきれません。以下想像です。現代でもそうですが、逆さに振っても資源的なものはどこにも無いわけですし、自然が生んでくれる養蚕は、貴重な資源だという認識があったんではないでしょうか?隣国との(漢とか魏も含めて)今で言う貿易にも使えますし(そんな技術があったかは疑問ですが)・・・と愚考します。絹の起源は、中国だとされます。最古の出土はBC3000年頃、黄帝の后である西陵が蚕を飼い、絹の作り方を伝えたとされています。BC6000年頃から絹の生産が始まったという説もあります。養蚕は、5~6000年前に黄河や揚子江流域で、野生のクワコを家畜化したのが始まりとされます。 4500から5000年前、既に中国ではカイコが飼育され、繭から生糸をとって絹織物をつくる技術を持っていた、と言われています。養蚕の技術は秘伝とされ、宮廷内だけで秘密裏に飼育していたようですが、BC1000年頃一般庶民に解放され、農家の休農時に飼育させるようになったようです。絹は、宮廷で強制的に取り上げ、税代わりにした地域もあったようです。BC1500~1000年頃の殷の時代の絹布や甲骨文、BC643年頃の周の金蚕等が発見されています。絹織物のタテ・ヨコ糸は撚りのない糸が使われていることから、すでになんらかの製糸技術が知られていたとされます。『絹が日本へいつ伝来したかは解っていないようですが、弥生時代の遺跡から絹織物が出土しており、すでに絹織物が作られていたと見られているようです。』絹の製法は、一般農家が養蚕に勤しむようになっても、国外不出の秘密とされ、何世紀もの間、国家保護されていました。『一般的には日本への養蚕技術が伝わったのはBC200年頃、稲作といっしょに中国からの移住者が、伝えたといわれています。』漢になると、宮廷だけでなく庶民の間でも絹の需要が高まり、前漢初期(BC200年頃)の墓からは、平絹、錦、紗、綺(き)などの絹織物が発見され、織りの他に刺繍や彩絵などの技法が、すでに使われていたとされます。前漢時代の蜀王本紀に、「蜀の先、王と称する者は蚕叢と曰う」と書かれ、 彼は養蚕を発明した人物と伝えられ、「民に蚕桑を教え」(馮堅『続事始』)たことから、「蚕の神」として尊ばれたという記載があります。 新疆ウイグル自治区でも後漢時代の絹織り物が発掘され、敦煌やモンゴル人民共和国のノイン・ウラやシリアのパルミラからも漢時代の絹織物が出土しています。漢時代に中国の絹織物がシルクロードを経て、西へ輸出されたとされます。古代ローマでは中国の事を、「セリカ」=「絹の国」と呼んでいたとされます。『195年には朝鮮半島百済から蚕種が、283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えたともされます。しかし、絹の生産技術については伝わらず、日本とインドが他国に先駆けて、この秘密を知ることになるのは、4世紀に入ってからとされます。』『魏志倭人伝には、238年卑弥呼が魏王への貢物として、『斑絹』という絹織物を送り返礼として、中国の絹織物を下賜されたとされます。この斑絹は、当時の中国製の絹織物との糸使いが異なっており、日本独自の絹織物の技術が存在していたとされます。』『その後、7世紀中頃からは、中国や朝鮮半島からの渡来人によって中国の先進的な技術が持ち込まれ、10世紀に編纂された延喜式には、畿内を除く61ヶ国中48ヶ国が絹生産国として記録され、その品位によって上糸国、中糸国、麁糸国と区分されていました。』Q:当時の五穀は何を指すか?穀類の中で重要な五つの種類を『五穀』をいいますが、邪馬台国(3世紀?)のころから「五穀米」といわれるのは、「米」・「麦」・「粟」・「豆」に「稗」or「黍」を混ぜたものをいうことが多いですね。他にも時代や地方によって『五穀』は違ってます。殺された神の死体から五穀が生まれとされ、712年献上の『古事記』は、「稲」・「麦」・「粟」・「大豆」・「小豆」「故、殺さえし神の身に生(なれる)物は、頭(かしら)に蚕生(な)り、ニつの目に稲種生り、ニつの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰(ほと)に麦生り、尻に大豆生りき。」720年完成の『日本書紀』は、「稲」・「麦」・「粟」・「稗」・「豆」『江戸時代以降』は、「米」・「麦」・「粟」・「豆」・「黍」『現代』に一般的には、「米」・「麦」・「粟」・「豆」・「黍」or「稗」『インド』では、「オオムギ」・「コムギ」・「米」・「アズキ」・「ゴマ」『中国』では、「周礼」の天官・疾医の鄭玄注で、「麻(ゴマとも?)」・「黍」・「稷」・「麦」・「豆」「孟子」滕文公上の趙岐注で、「稲」・「黍」・「稷」・「麦」・「菽 (きび、コーリャン?)」 「楚辞」大招の王逸注で、「稲」・「稷」・「麦」・「豆」・「麻」「黄帝内経素問」蔵気法時論の王氷注で、「粳米」・「小豆」・「麦」・「大豆」・「黄黍(もろこし?)」 |
| 回答数 |
1 |
| 質問日 |
2011年06月04日 |
| 解決日 |
2011年06月05日 |
| 詳細 |
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1363776778 |
確実に軍師祭酒になった人物は誰でしょうか?「軍祭酒」や「軍謀祭酒」では...
| 質問 |
確実に軍師祭酒になった人物は誰でしょうか?「軍祭酒」や「軍謀祭酒」ではなく、「軍師祭酒」になった人物です。魏書・武帝紀のある記述では軍師祭酒と祭酒(軍祭酒?)が分けて書かれています。軍師祭酒と軍祭酒を分けてみると、軍祭酒になった者は容易に見つかるものの、軍師祭酒に任命された人物を見つけられませんでした。恐らく見落としたのだと思いますが、そのような記述がある人物はいるのでしょうか? |
| 回答 |
董昭がいます。本人の伝では「司空軍祭酒」となったとありますが、武帝紀の注に引く『魏書』の魏公勧進文では、「軍師祭酒千秋亭侯董昭」と記されています。おそらく、本来は軍師祭酒であったのが、陳寿の本文や晋代の書物の引用では司馬師の諱を避けて軍祭酒と、魏代の書物や上奏文の転載の時はそのまま軍師祭酒という表記になっているのではないかと思います。 |
| 回答数 |
1 |
| 質問日 |
2011年04月17日 |
| 解決日 |
2011年04月24日 |
| 詳細 |
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1060333900 |
三国志に伝のある崔琰の生年ってわかりますか?Wikipediaには16...
| 質問 |
三国志に伝のある崔琰の生年ってわかりますか?Wikipediaには163年とありますが、魏書を見たところ、年齢を決定できるような記述を見つけられませんでした。北海郡が黄巾賊によって落とされた時の年齢からおおよそは絞り込めると思いますが、それでも確定するには情報足りません。Wikipediaは何を元にして生年を決めたのでしょうか? |
| 回答 |
後漢書の孔融伝と鄭玄伝の記載から190年に孔融を北海相に推挙などの記載 劉備が平原の相であることから後漢書の公孫瓚の伝や三国志の先主伝の記載 袁紹の冀州牧になった時期 太史慈伝の記載を合わせれば ご指摘の崔琰伝の北海郡の記載時29歳から大体163年とすることができます魏書だけでは確定できません『孔融殿は天下に劉備という人物がいることをご存知だったのか』 |
| 回答数 |
1 |
| 質問日 |
2011年02月06日 |
| 解決日 |
2011年02月08日 |
| 詳細 |
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1155100266 |